鶴ヶ城の魅力を探る - 赤瓦の天守閣と戊辰戦争、そして北海道とのつながり
会津若松市にある鶴ヶ城(会津若松城)は、日本100名城の一つに数えられ、その美しい赤瓦の天守閣と、戊辰戦争の歴史が深く関わっています。今回は、会津若松観光ビューローの学芸員・近藤真佐夫氏に、鶴ヶ城の特徴や戊辰戦争に関する新発見、そして会津藩と北海道とのつながりについてお話を伺いました。
鶴ヶ城の特徴と魅力
——鶴ヶ城が日本100名城に選ばれた理由を教えてください。
鶴ヶ城の魅力は大きく二つあります。一つは、戊辰戦争時に約一ヶ月もの間、籠城戦に耐え抜いた軍事的価値です。もう一つは、東北地方では珍しい石垣造りの城郭で、特に天守台の石垣は東北最大級の規模を誇ります。
また、鶴ヶ城の天守閣は赤瓦が特徴的です。これは日本の城では唯一のもので、訪れる人々を惹きつける魅力の一つとなっています。
——なぜ天守閣に赤瓦が採用されたのでしょうか?
元々は黒瓦が使われていましたが、会津の寒さにより瓦に染み込んだ水分が凍結し、割れてしまう問題がありました。このため、釉薬(ゆうやく)を使った赤瓦が採用され、強度を増すことができました。
戊辰戦争と鶴ヶ城の新たな事実
——NHK「歴史探偵」* でも紹介された、戊辰戦争に関する新たな発見とは?
これまで「新政府軍は最新の武器を持ち、旧幕府軍は旧式の武器で戦った」とされてきましたが、最新の研究ではそう単純な話ではないことが分かってきました。
また、会津藩が敗北した背景には、単なる戦力差だけではなく、地理的・文化的な要因も大きく影響していました。会津藩の領地は現在の千葉県ほどの広さがあり、兵力が分散してしまったことが一因とされています。さらに、武士道を重んじる文化から、近代的な戦術を取り入れることが難しかったという側面もあります。
* NHK「歴史探偵」2024年5月29日放送回に、近藤さんがご出演
会津藩と北海道の知られざる関係
——会津藩と北海道にはどのようなつながりがあるのでしょうか?
会津藩と北海道(当時の蝦夷地)との関わりは、大きく三回に分けられます。
- 1807年:ロシアの南下政策に備え、会津藩の藩士約1600名が蝦夷地の防衛に派遣されました。
- 1859年:幕府から命じられ、北海道北西部の約360kmの警備を担当しました。
- 戊辰戦争後(1869年頃):敗戦により、約700名の会津藩士が北海道へ流罪となり、小樽や余市で新しい生活を始めました。彼らは開拓民として、北海道の発展に大きく貢献しました。
このように、会津藩は単なる敗者ではなく、日本の北方防衛や北海道の開拓において重要な役割を果たしたのです。
現代に息づく鶴ヶ城の歴史
現在の鶴ヶ城は、五層構造の天守閣を持ち、各階には歴史を学べる展示が充実しています。特に、2023年のリニューアルではデジタルアートを活用し、歴史を体感できる展示が導入されました。
近藤さんは、「会津若松の歴史は戊辰戦争だけではない」と語ります。今後も最新の研究成果を活かしながら、若い世代にも分かりやすく歴史を伝え、会津の魅力を広めていく取り組みを続けていくとのことでした。
歴史好きな方はもちろん、これまであまり興味がなかった方も、鶴ヶ城を訪れて会津の奥深い歴史を体感してみてはいかがでしょうか?
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