江戸から明治へ—金城民俗資料館で学ぶ、金城町の「たたら製鉄」と鉄の流通
島根県浜田市にある金城民俗資料館と金城歴史民俗資料館。この二つの資料館は、地域の貴重な歴史と文化を伝える大切な場所です。今回は、館長の隅田正三さんにお話を伺いました。
資料館の始まり
金城民俗資料館が開設されたのは約51年前。その後、5年後に金城歴史民俗資料館が開館しました。当時、地域の伝統的な家屋が次々と姿を消し、民具や生活道具が失われる危機にありました。それを見た住民たちが「このままでは大切な歴史が消えてしまう」と考え、貴重な道具を集め始めたのが資料館の始まりです。
特に、昭和30年代には藁葺き屋根が瓦屋根に変わるなど、生活の変化が急速に進んでいました。そのため、地域の人々が協力して歴史的な道具や民具を集め、資料館を設立しました。
金城歴史民俗資料館の特徴
金城歴史民俗資料館は、元々「たたら蔵」と呼ばれる建物でした。ここでは、江戸時代から続く製鉄業の歴史や、鉄の流通について詳しく学ぶことができます。
多々良(たたら)とは、日本独自の製鉄法で、砂鉄を使って鉄を作る技術です。金城町は、質の高い砂鉄が採れる地域で、江戸時代から明治時代にかけて盛んに製鉄が行われていました。
たたら製鉄と北前船
金城町で作られた鉄は、日本海を航行する北前船によって全国へ運ばれていました。特に、山形県の酒田港や新潟の高田港といった港町との取引が盛んで、当時の商人の名前も記録に残っています。
鉄が「10巻(37.5kg)」単位で取引され、それを「1束(そく)」と呼ばれていました。最盛期には、2051束(約77トン)もの鉄が取引され、現在の価値に換算すると約1億5000万円相当だったそうです。
江戸時代の刀剣と農具の鉄
金城町の砂鉄は、質の違いによって使い道が異なりました。
- 花崗岩由来の砂鉄 → 刀や槍などの武器に使用
- 閃緑岩由来の砂鉄 → 農具(鎌や鍬など)に使用
特に、戦国時代までは刀剣の需要が高く、高品質の鉄が求められました。しかし、江戸時代に入ると戦争が減り、農具としての鉄の利用が増えていきました。
たたら製鉄の衰退と近代化
明治時代に入ると、日本各地で鉄鉱石を使った近代的な製鉄が始まりました。これにより、砂鉄を使うたたら製鉄は次第に衰退し、鉄の流通も減少しました。さらに、鉄道の発展によって物流の形が変わり、船での輸送も減少していきました。
それでも、明治の終わりごろまでは九州地方(福岡・佐賀・熊本など)へ鉄が運ばれ続けていました。しかし、明治21年(1888年)には、完全に取引が終了し、たたら製鉄の歴史も幕を閉じました。
歴史を未来へ伝える
現在、金城歴史民俗資料館では、12月28日まで特別企画展「明治期の鉱業法に見るたたら製鉄」を開催中です。明治時代、浜田市周辺が「浜田県」と呼ばれていた短い期間の歴史や、たたら製鉄の最後の時代について学ぶことができます。
資料館には、日本全国から歴史愛好家が訪れます。隅田館長は、「地域の歴史を後世に伝えることが大切」と語り、今も貴重な文化財の保護活動を続けています。
まとめ
金城町の歴史やたたら製鉄の文化は、単なる過去の話ではなく、私たちの生活に深く関わっています。鉄がなければ、農具も武器も作れず、日本の発展はなかったかもしれません。
もし、もっと詳しく知りたい方は、ぜひ金城歴史民俗資料館を訪れてみてください。貴重な歴史の証人となる展示が、皆さんを待っています!
ゲストプロフィール
隅田正三(すみた しょうぞう)
金城民俗資料館・金城歴史民俗資料館 館長。長年にわたり、地域の歴史と文化財の保護・研究に尽力。特に、たたら製鉄と北前船の歴史に詳しく、各地で講演も行っている。
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