古代糸国から現代へ:玄界灘に面した交易の要衝が語る2000年の歴史

2024/10/25(金)

玄界灘に面した糸島の歴史とは?

福岡県糸島市に位置する「伊都(いと)国(こく)」は、古代の歴史書『魏志倭人伝』にも登場する場所です。かつては朝鮮半島や中国、さらに遠くカザフスタンからの交易品が届いていたことが発掘調査で明らかになっています。今回は、伊都国歴史博物館の学芸員・江野道和氏に、糸島の2000年以上にわたる交易の歴史についてお話を伺いました。

魏志倭人伝に記された「伊都国」

魏志倭人伝には、伊都国は1000戸ほどの家々があり、王が治めていたと記されています。さらに、朝鮮半島の楽浪郡(現在の北朝鮮付近)からの使者が伊都国に滞在していたとも書かれており、すでに外交的な関係が築かれていたことがわかります。

では、伊都国はどのようにしてアジア各地と交流を持っていたのでしょうか?

交易の中心地としての伊都国

伊都国は海に面しており、古くから海上交通の要衝でした。三雲・井原遺跡(みくも・いわらいせき)からはカザフスタンで作られたガラス玉が見つかっており、これはシルクロードを経由して伊都国まで運ばれたものと考えられています。また、中国や朝鮮半島との交易の痕跡も多く発掘されており、さらには日本国内の北陸や出雲地方とも盛んに交易が行われていたことがわかっています。

弥生時代の船「準構造船」とは?

伊都国の人々はどのような船で交易をしていたのでしょうか?

弥生時代には「準構造船」と呼ばれる船が使われていました。これは、縄文時代の丸木舟を改良したもので、丸木舟の側面に板を継ぎ足し、より多くの人や物資を運べるようにした船です。これにより、大量の交易品を運ぶことができるようになり、伊都国はますます繁栄していきました。

江戸時代の糸島地域の発展

時代が進み、江戸時代になると、糸島は福岡藩(黒田藩)の領地となり、唐津藩や幕府直轄地(天領)も混在する複雑な地域になりました。その一方で、長崎街道や唐津街道が通ることで、交易の拠点として重要な役割を果たしていました。

特に長崎街道は「シュガーロード」とも呼ばれ、砂糖や海外からの貴重な品々が運ばれるルートでした。これにより、糸島地域の商業も大きく発展していきました。

伊都国の歴史が伝えるもの

伊都国は、弥生時代から続く交易の中心地として、日本の歴史に大きな影響を与えてきました。2000年以上前から、カザフスタン、中国、朝鮮半島とつながり、豊かな文化を築いてきたのです。

現代のグローバル化のように、伊都国もまた、古代の「国際交流」の舞台でした。こうした歴史を知ることで、私たちの暮らしが過去とどのようにつながっているのかを感じることができるでしょう。

伊都国歴史博物館では、これらの貴重な歴史を展示し、弥生時代から江戸時代までの糸島の歩みを体感することができます。ぜひ一度、訪れてみてはいかがでしょうか?

ゲストプロフィール

江野道和(えの みちかず)氏
伊都国歴史博物館の学芸員。考古学を専門とし、特に文字以前の時代における遺跡の調査研究に従事。発掘調査の現場経験も豊富で、現在は博物館での展示企画や収蔵品の管理を担当している。伊都国地域の古代史研究の第一人者として、魏志倭人伝に記された伊都国の実態解明に取り組んでいる。

関連情報