北前船と石見銀山 - 港町・温泉津の歴史をたどる

2024/11/08(金)

日本海を舞台に活躍した北前船。この船が寄港した温泉津(ゆのつ)という港町と、世界的に有名な石見銀山(いわみぎんざん)の関係について、地理学者の永田信孝(ながた のぶたか)氏が語ります。地理学の視点から、温泉津の役割や銀山の歴史をひも解きます。

温泉津(ゆのつ)とは?

温泉津は、温泉と港が一体となった珍しい町です。北前船の寄港地であり、石見銀山の外港としても重要な役割を果たしました。日本海側には港が少なかったため、船が嵐を避けるための「避難港」としても活用されていました。明治時代の記録によると、年間約1,100隻もの船がこの港を利用していたそうです。

温泉津には複数の港があり、それぞれ異なる役割を持っていました。特に沖泊(おきどまり)は70隻もの船が停泊できる大規模な港で、銀の輸送拠点として機能していました。

温泉津を経由した交易品

温泉津では、多種多様な物資が取引されていました。

  • 輸出品:銀、水がめ(焼き物)、木材、石材
    • 特に石材は船の底に積まれ、重しとしても使われました。
  • 輸入品:米、大豆、小麦、塩、タバコ
    • これらは生活必需品で、温泉津を経由して周辺の町へ届けられました。

世界を驚かせた石見銀山

当時、日本は世界の銀産出量のおよそ3分の1を占め、その中でも石見銀山は特に重要でした。

  • 開発:1533年、博多の商人によって発見されました。
  • 最盛期:1600年~1630年の30年間がピーク。
  • 世界の地図に記載:1599年に作成されたラテン語の地図にも「石見銀鉱山」と書かれるほど有名でした。

当時の日本の銀は、スペインやポルトガルの商人によって海外へ輸出され、中国との貿易にも使われていました。石見銀山の銀は、世界経済にも大きな影響を与えたのです。

銀山を守った鉄壁の警備体制

銀は貴重な資源だったため、石見銀山には厳重な警備体制が敷かれていました。

  • 毛利元就(もうり もとなり)の支配:この地を治め、銀を守るために3つの城を築きました。
  • 沖泊(おきどまり)の役割:ここには70隻もの船が停泊できる設備があり、銀を安全に輸送するための拠点でした。

船員たちを支えた温泉津の文化

温泉津は単なる港町ではなく、温泉地としての側面も持っていました。北前船の船員たちは長い航海で疲れた体を癒やすため、温泉津の温泉を利用していたのです。

また、船員たちは航海の安全を願い、23個ものお守りを身につけていたと言われています。これは当時の船旅がいかに危険だったかを物語っています。

まとめ

永田信孝氏の研究を通じて、温泉津と石見銀山がどれほど重要な場所だったのかがわかります。

  • 温泉津は、北前船の寄港地であり、銀の輸送拠点として栄えた。
  • 当時、日本銀は世界の銀産出量の約3分の1を占めており、その大部分が石見銀であった。
  • 温泉津は、交易の場としてだけでなく、船員の休息地としても機能した。

歴史を知ることで、今も残る温泉津の町並みや、石見銀山の遺跡が持つ価値がより深く感じられるのではないでしょうか。

ゲストプロフィール

永田信孝(ながた のぶたか)氏
地理学者・北前船研究家。長崎県在住。元高校教員で、現在は長崎大学および長崎純心大学の非常勤講師を務める。北前船の寄港地研究の第一人者として、多くの著作を発表。

関連リンク