【オンライン浪漫紀行】海を渡った古伊万里〜フェルメールと焼き物〜
フェルメールの絵画と焼き物のつながり
オランダの画家ヨハネス・フェルメールの作品には、美しい陶磁器が描かれていることをご存じでしょうか?その中には、日本から渡った「古伊万里」と呼ばれる焼き物があるかもしれません。
今回、佐賀県立九州陶磁文化館の鈴田由紀夫館長が、オランダ・デルフトを訪れ、フェルメールの作品に登場する焼き物のルーツを探りました。
古伊万里焼とは?
現在の佐賀県有田町で作られ、江戸時代に伊万里港から海外へ輸出された焼き物は「伊万里焼」と呼ばれていました。特に17世紀から18世紀初頭にかけて輸出されたものは「古伊万里」と区別されます。
中国の景徳鎮、日本の有田焼、オランダのデルフト焼が競い合っていた時代、古伊万里はヨーロッパでも非常に人気がありました。華やかなデザインの「芙蓉手(ふようで)」と呼ばれる様式は、中国で始まり、日本で受け継がれ、さらにオランダのデルフト焼にも影響を与えました。
日本の焼き物がヨーロッパへ渡ったルート
17世紀、長崎の出島から出発した古伊万里は、オランダ東インド会社の船でジャカルタへ運ばれ、そこからさらにオランダ本国へと届けられました。この旅は1年以上かかる長旅でしたが、日本の焼き物はヨーロッパの貴族たちの宮殿を飾るほどの人気を博しました。
フェルメールの絵画に描かれた焼き物
フェルメールが活躍した17世紀後半、有田焼はヨーロッパへの輸出の全盛期でした。彼の作品に登場する陶磁器は、もしかすると古伊万里である可能性もあります。
- 「窓辺で手紙を読む女」(1657-59年頃) - 絵に描かれている焼き物は中国の景徳鎮と推測されますが、日本の焼き物もこの時期に作られていました。
- 「真珠の首飾りの女」(1663年頃) - こちらに描かれた壺は、一般的な評論家の間ではデルフト焼とされていますが、当時の時代背景を考慮すると、中国製・日本製・オランダ製のいずれである可能性も考えられます。
鈴田館長によると、ヨーロッパではデルフト焼とされているものの、形状やデザインが有田焼に近いものがあるそうです。
デルフト焼と有田焼の違い
デルフト焼はオランダ独自の陶器ですが、当時の技術では有田焼のような磁器の質感には及びませんでした。デルフト焼は茶色い陶器に白い釉薬(ゆうやく)をかけ、その上から青い模様を描きます。そのため、割れると内部は茶色く見えます。
一方、有田焼は光を通し、叩くと金属音がする磁器です。この技術の違いが、後にデルフト焼が衰退し、有田焼が評価され続けた理由の一つでもあります。
オランダに残る焼き物の歴史
現在もデルフトには、かつての東インド会社の建物が残っており、当時の交易の様子を知ることができます。また、ロイヤルデルフト社は、オランダで唯一現存するデルフト焼の老舗で、創業は1653年。かつて32あった工房の中で唯一生き残り、伝統の技術を守り続けています。
フェルメールが描いた焼き物に込められた意味
フェルメールの作品では、光や人物の表情に注目が集まりがちですが、背景に描かれた焼き物にも歴史的な価値があります。もしかすると、彼の家には日本の焼き物があったのかもしれません。
フェルメールが生きた時代、オランダでは日本の焼き物が珍重され、貴族たちがこぞってコレクションしていました。そのため、彼の絵画に描かれた壺や皿も、実際に日本から渡ったものだった可能性があります。
まとめ
フェルメールの絵画に登場する焼き物と、日本の有田焼(古伊万里)のつながりを探ることで、17世紀の国際的な交易の歴史が見えてきます。有田焼がオランダに影響を与え、デルフト焼が誕生したように、文化は国を越えて繋がっています。
今回の研究によって、フェルメールの作品を新たな視点で楽しむことができるかもしれません。今度、美術館で彼の作品を見るときは、ぜひ背景に描かれた焼き物にも注目してみてください!
ゲストプロフィール
鈴田由紀夫(すずた ゆきお)さん
佐賀県立九州陶磁文化館館長。佐賀県の陶磁器文化に関する研究・普及活動に長年携わり、有田焼や古伊万里の魅力を国内外に発信している。
