【オンライン浪漫紀行】北前船時代の焼き物紀行(1)〜裏の銘の見方〜
伊万里焼は、江戸時代から受け継がれてきた日本を代表する伝統工芸品のひとつです。今回は、佐賀県立九州陶磁文化館の館長・鈴田由紀夫さんに、その歴史や魅力についてお話を伺いました。
伊万里焼と古伊万里とは?
江戸時代、佐賀県有田で生まれた焼き物は、伊万里港を経由して全国に広まり、「伊万里焼」と呼ばれるようになりました。特に、江戸時代に作られたものは「古伊万里(こいまり)」と称され、今でも高い人気を誇ります。
焼き物には、大きく分けて茶色が特徴の「陶器」と、白く滑らかな「磁器」があります。伊万里焼は磁器の代表的な存在で、日本国内のみならず海外へも広く輸出され、その美しさと技術が高く評価されました。
焼き物から読み解く歴史
歴史を知る上で、文字資料だけでなく実際の焼き物を観察することも重要です。例えば、焼き物の裏側に書かれた「銘(めい)」を見ると、その作品がどこで、いつ作られたのかを推測できます。
江戸時代の伊万里焼の裏書きを見ると、中国・明王朝の「成化(せいか)」年間(1465〜1487年)に作られたとされるものがあります。しかし、実際には佐賀県有田で作られたものであり、当時の職人が中国・景徳鎮(けいとくちん)の焼き物を模倣し、あえて中国の銘を入れていたことがわかります。
伊万里焼の裏書きの変遷
伊万里焼の裏書きには、それぞれの時代の特徴が反映されています。江戸時代のものには、中国の銘が刻まれていることが多く、その文化的な影響が色濃く感じられます。しかし、幕末から明治にかけては、日本独自のブランド銘が使われるようになり、焼き物の個性がより際立つようになりました。
時代とともに、裏書きの形式も変化を遂げてきました。初期のものでは「太明成化年製」のように長い銘が一般的でしたが、次第に簡略化される傾向が見られます。幕末から明治にかけては、窯元や企業の名が裏書きに加わり、「肥碟山信甫(ひちょうざんしんぽ)造」や「香蘭(こうらん)社製」などのブランド銘が登場しました。さらに、大正時代には職人の個人名が刻まれるようになり、作り手の技術や芸術性がより前面に出るようになりました。
- 1600年代(初期): 「太明成化年製」など中国風の銘
- 1700年代: 「大清乾隆年製」など、清王朝の銘も登場
- 1800年代: 一文字の銘(「乾」「隆」など)に短縮
- 幕末・明治: 「肥碟山信甫造」や「香蘭社製」など日本独自のブランド銘が登場
- 大正以降: 職人の個人名が入るようになり、独自性が強まる
有田焼の輸出と北前船
江戸時代、日本は鎖国していたため、中国とオランダ以外とは直接貿易ができませんでした。そのため、有田焼は長崎県の出島からオランダへ輸出され、さらにヨーロッパ各国へと広がりました。
また、日本国内では北前船によって北海道や東北地方へも運ばれ、全国に伊万里焼の文化が広がりました。特に松前藩(北海道)には多くの伊万里焼が運ばれ、今でもその影響が見られます。
九州陶磁文化館の魅力
佐賀県にある「九州陶磁文化館」は、有田焼をはじめとする九州の陶磁器を展示している博物館です。館内には、柴田夫妻が寄贈した1万311点の古伊万里コレクションがあり、常時約1000点を展示しています。
最近ではGoogleのストリートビューにも対応し、オンラインで館内を見学できるようになりました。実際に訪れることができなくても、インターネットを通じて伊万里焼の魅力を楽しめます。
まとめ
伊万里焼は、日本の歴史や文化、職人の思いが詰まった芸術品です。その裏書きを見ることで、当時の人々の願いや、世界とのつながりを感じることができます。
もし伊万里焼を手にする機会があったら、裏書きをチェックしてみてください。そこには、歴史のロマンが隠れているかもしれません。
ゲストプロフィール
鈴田由紀夫(すずた ゆきお)さん
佐賀県立九州陶磁文化館 館長。焼き物の歴史や文化に精通し、特に伊万里焼や有田焼の研究を長年続けている。日本国内外での陶磁器に関する講演や展示監修を行い、九州の焼き物の魅力を広める活動をしている。
