【オンライン浪漫紀行】宴席の主役「大皿」〜江戸時代の大皿と北前船のつながり〜

2025/02/23(日)

江戸時代、日本各地の宴席で使用された「大皿」。直径30センチ以上の大きな皿で、宴席を華やかに彩る重要な役割を果たしていました。今回、佐賀県立北九州陶磁文化館の鈴田由紀夫館長に、大皿が北前船の交易においてどのような役割を担っていたのかを伺いました。

宴席を彩る「大皿」

高知県の皿鉢(さわち)料理をご存じでしょうか?大皿に豪華な料理を盛りつけ、みんなで取り分ける日本の伝統的な宴席スタイルです。江戸時代には、有田焼の大皿がこうした宴席で広く用いられていました。

昨年、神奈川県横浜市の収集家から、江戸時代の大皿100枚が寄贈されました。これを記念し、当館では展覧会を開催し、当時の宴席の様子を再現しました。お茶室に大皿料理を並べ、当時の雰囲気を体感できる展示を行いました。例えば、佐賀県唐津市で11月に開催される「唐津くんち」では、地元で「アラ」と呼ばれる魚を醤油で煮込んだ料理が振る舞われ、こうした伝統的な食文化にも大皿が活用されていました。

大皿の注文と納品の記録

江戸時代の大皿の注文記録として特に注目されるのが、鳥取県の大庄屋・近藤萋五郎(こんどう さいごろう)氏の注文です。1844年(天保15年)、佐賀県有田の窯元・諸隈喜右衛門(もろくま きうえもん)氏に199点もの焼き物を発注しました。そのうち80数点が現在も残り、北九州陶磁文化館に寄贈されています。

注文から納品までには約2年を要し、当時のやりとりの記録が残っています。発注者の近藤氏、仲買人の鳥取県・小山屋七郎兵衛氏、輸送を担った山口県下関の升屋与右衛門氏、そして佐賀県の窯元・諸隈氏と、多くの人々が関わっていました。

注文された大皿の特徴

近藤家が注文した大皿の一例として、直径約45センチの「極山水絵(ごくさんすいえ)」の大鉢が挙げられます。この大皿には、家紋である「隅切り角に剣花菱」が描かれるよう指定されていました。当時の記録には「極上の山水絵で」との注文が書かれており、特別な一品であったことが分かります。

また、価格の記録も残されており、1844年当時の相場では2枚で2両(1両=約24万円換算)。近藤家では総額8両(約192万円)を支払い、刺身皿やお茶碗など30種類の焼き物を注文していました。これにより、60人規模の宴会が催されたと推測されます。

焼き物の輸送と北前船

有田焼の大皿は、北前船を通じて全国へと運ばれました。特に、鳥取県賀露浦(かろうら)港へは、伊万里の船問屋・福市屋良助氏が関わり、決済を担当しました。

輸送の際、199点の焼き物は3つの籠に分けて梱包され、藁で丁寧に包まれました。佐賀県伊万里から山口県下関までは運賃660文、そこから鳥取県賀露浦までは200文と、距離に対して不思議な料金設定も見られます。

「瀬川竹生コレクション」の大皿

最近寄贈された100枚の大皿の中には、直径55.5センチの特に豪華なものもありました。中央に松竹梅が描かれ、外側には唐草文様が緻密に施されています。この唐草文様は「永遠の繁栄」を象徴し、職人のこだわりが感じられます。

また、唐草文の間には9,343個の細かい魚子文(ななこもん)が描かれていました。これほどの細かい装飾を施すには、高度な技術と膨大な時間が必要だったでしょう。そのため、この一枚の大皿の価値は、当時の1両(24万円)をはるかに超えた可能性があります。

まとめ

江戸時代の大皿は、単なる食器ではなく、宴席を華やかに彩り、豪華さを象徴するものでした。その流通には北前船が深く関わり、各地の商人たちが連携して大規模な取引を行っていました。

また、現代に残る注文記録からは、当時の商習慣や人々のやりとりが生き生きと伝わってきます。今回紹介した佐賀県有田と鳥取県のつながりのように、大皿を通じて日本各地の歴史や文化が結びついていたことがよく分かります。

ゲストプロフィール

鈴田由紀夫(すずた ゆきお)さん

佐賀県立北九州陶磁文化館 館長。陶磁器の歴史と文化を研究し、有田焼をはじめとする日本各地の焼き物に関する豊富な知識を持つ。江戸時代の陶磁交易に関する研究を行い、展覧会や講演を通じて広く発信している。